概要
この文章は、結城浩さんの『マルチン・ルターの小信仰問答書』(1999年翻訳)を、私・まこっちがマークアップやスタイル等を改変したものです。翻訳文章の内容は殆どそのままです。
この文章の扱いについては、結城さんの訳文と同様にパブリックドメインに置かれています。
- 結城浩さんのサイト
- http://www.hyuki.com/
宗教改革を行ったマルチン・ルターが、キリスト教における十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼、罪の告白、聖餐式などの意味を問答形式で簡潔・平明にまとめたもの。キリスト教のエッセンスを正しく学ぶためのテキスト。
Luther's Little Instruction Book (The Small Catechism of Martin Luther)
マルチン・ルター著
結城浩訳
目次
第一部:十戒について
父親が家族に十戒を簡潔に示すには
〔訳注:ここでのルターの番号のつけ方は、アウグスティヌスおよびラテン教会の区分法に従っています(『信仰要義』p.188)。他の区分法では、第二の戒めとして「偶像礼拝の禁止」が入り、順に番号がずれていき、最後の二つ「第九の戒め」と「第十の戒め」が一つにまとめられて「第十の戒め」になります。聖書そのものには番号はつけられていません。〕
第一の戒め
- 他の神々を神としてはいけません。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは他の何よりも唯一の神を畏れ、愛し、信頼しなければならないということです。
第二の戒め
- 神の名前を誤った目的に使ってはいけません。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、神の御名を用いて呪ったり、誓ったり、呪文を唱えたり、嘘をついたり欺いたりしてはなりません。そうではなく、神を求め、神に祈り、神を賛美し、いかなる困難なときにおいても神に感謝するために、神の御名を用いなさい、という意味です。
第三の戒め
- 安息日を聖なるものとして守りなさい。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、説教や神の御言葉を軽視してはいけません。そうではなく、神の言葉を聖なるものと考え、喜んで自分から耳を傾け、それを学びなさい、という意味です。
第四の戒め
- あなたのお父さんとお母さんを敬いなさい。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、両親や目上の人を馬鹿にしたり、わずらわせたりしてはいけません。そうではなくて、両親や目上の人を敬い、仕え、従い、愛し、大切な存在として扱いなさい、という意味です。
第五の戒め
- 殺してはいけません。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、私たちは隣人の体に害を与えたり、傷つけたりしてはいけません。そうではなくて、病気のときに隣人を助け、看病してあげるのです。
第六の戒め
- 姦淫をしてはいけません。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、私たちは言葉においても行いにおいても、きよくあり、つつましやかでなければなりません。そして自分の配偶者を愛し敬うべきです。
第七の戒め
- 盗みをしてはいけません。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、私たちは隣人のお金や所有物を奪ったり、詐欺によって得たり、貧弱に作られたものを売りつけたりしてはいけません。そうではなくて、隣人が財産や経歴を増し加えたり、守ったりできるように手助けしなければなりません。
第八の戒め
- 隣人について、嘘をついてはいけません。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、私たちは嘘をついたり、裏切ったり、名誉を毀損したり、隣人の評判を落としたりして欺いてはなりません。そうではなくて、むしろ隣人について弁護し、隣人に関して良いことを言い、隣人がなすことの良い面を見るようにしなければなりません。
第九の戒め
- 隣人の家を欲しがってはなりません。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、私たちは隣人をだまして遺産や家を奪おうとしたり、自分に権利があるような振る舞いをして奪い取ろうとしたりしてはなりません。そうではなくて、隣人が財産を保ち、さらに増し加えられるように手助けをすべきです。
第十の戒め
- あなたは、隣人の妻、男性の奴隷、女性の奴隷、家畜、そのほかどんなものであれ、隣人のものを欲しがってはいけません。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、私たちは隣人の牛を放したり、雇い人を奪ったり、妻を誘惑したりしてはいけません。そうではなくて、彼らが隣人のところにとどまりつづけ、それぞれの義務を果たすようにしなければなりません。
結び
- 問い:これらの戒め全体について、神様は私たちに何とおっしゃっていますか。
答え:以下が神様の語っておられることです。「わたしは主、あなたの神である。わたしはねたむ神である。わたしを憎む者に対しては、祖先の罪をその孫、さらにその孫にまで負わせる。しかし、わたしを愛する者に対しては千代に及ぶまで恵みを施す」
問い:これはどういう意味ですか。
答え:神様はこれらの戒めを破る者をすべて罰すると警告を与えています。それゆえ、私たちは神様の御怒りをおそれるべきであり、これらの戒めに違反しないようにすべきです。しかし、神様はこれらの戒めを守る者には恵みとすべての良い物を約束してくださいます。それゆえ、私たちは神様を愛し、神様を信頼し、神様の戒めが求めることを喜んで行うべきなのです。
第二部:使徒信条について
父親が家族に使徒信条を簡潔に示すには
第一の記事:創造について
- われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私は、神様が他の被造物とともに私を作ったということを信じています。神様は私に、肉体と魂、目と耳と体のすべて、心と全感覚をお与えになりました。そしてそれらを保っていてくださいます。また神様は、衣服と靴、食べ物と飲み物、家と土地、妻と子、田畑と家畜と私の所有物すべてを与えてくださいます。神様は、毎日絶えることなく、私の体と命を養うために必要なすべてを与えてくださいます。神様はすべての危険から私を守り、すべての邪悪なものから守ってくださいます。神様がこれらのことを行うのは、父なる神様の、純粋で聖なる義と恵みのためであり、私が自分の力で得たわけでもなく、私にその資格があるからでもありません。これらのすべてのことのゆえに、私は神様に感謝し、神様を賛美し、神様に仕え、神様に従わなければなりません。はい、そうです。このことは真実です。
第二の記事:あがないについて
- われはその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり天に上り、父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生けるものと死にたるものとをさばきたまわん。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私はイエス・キリストがとこしえの父なる神により生まれたまことの神であることを信じます。私はまた、イエス・キリストが処女マリアから生まれたまことの人間であることを信じます。イエス・キリストこそ私の主です。イエスは私をあがないました。私は道に迷い、呪われた人間でした。すべての罪、死、悪魔の支配下から、イエスは、私を買い取り、私を勝ち取りました。それは金や銀で買い取ったのではありません。イエスさまの聖なる貴い血潮、イエスさまの無実の体 ―― イエスさまの死によってです。このようにして、私はイエスさまのものとなり、イエスさまの王国でイエスさまの元で暮らし、 義とされ、罪ゆるされ、祝福をうけて、永遠にイエスさまに仕えるのです。イエスさまが死から復活し、永遠に治めるのと同じように。はい、そうです。このことは真実です。
第三の記事:聖めについて
- われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒のまじわり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私は、私の主であるイエス・キリストのもとへ自分自身の知性や力で向かうことはできません。しかし聖霊様が福音によって私を召してくださり、聖霊の賜物によって私の目を開かせてくださり、まことの信仰のうちにあって私を聖なるものにし、保ってくださるのです。それはちょうど、聖霊が地上の全教会を召してくださり、一つに集めてくださり、目を開かせてくださり、イエスとともに唯一のまことの信仰のうちにあって聖なるものとし、保ってくださるのと同じです。この教会において、神様は毎日、私やすべての信仰者がおかした罪をすべてゆるしてくださいます。そして終わりの日に神様は、私とすべての死んだ人を墓から引き上げてくださいます。神様は、私と、キリストを信じるすべての人に永遠の命を与えてくださいます。はい、そうです。このことは真実です。
第三部:主の祈りについて
父親が家族に主の祈りを簡潔に示すには
神への呼びかけ
- 天にまします、われらの父よ。
〔天にいらっしゃる、私たちのお父さん。〕
問い:これはどういう意味ですか。
答え:この祈りを始めるにあたり、神様が私たちの本当のお父さんであり、私たちが神様の本当の子どもたちであるように信じなさいと神様は私たちを招いていらっしゃるのです。そうして私たちは、神様を信頼し、完全な確信を持って祈るのです。愛する子どもたちが、愛する父へ願いごとを持っていくのと同じように。
一番目の願い
- ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。
〔あなたの名前が聖なるものとなりますように。〕
問い:これはどういう意味ですか。
答え:言うまでもなく、神様のお名前はそれ自体聖なるものです。でもこの願いを通して、神様が私たちのうちにおいても御名を聖なるものとしてくださるように、と私たちは祈るのです。
問い:どうすれば、そのようなことが起こりますか。
答え:神様の御言葉である聖書がはっきりとそのままの形で教えられ、私たちが御言葉を土台として神の子どものように聖い生活をするときにそうなります。天にいらっしゃる お父様、そのように私たちを助けてください。しかし、神の御言葉以外の何かによって教えたり、生活したりする者は、私たちの間に働く神様の御名をけがすのです。天にいらっしゃる お父様、そのようなことから私たちをお守りください。
ニ番目の願い
- 御国(みくに)を来たらせたまえ。
〔神の国が来ますように。〕
問い:これはどういう意味ですか。
答え:もちろん、私たちが祈らなくても、神の御国はやってきます。しかし、私たちはこの願いを通して、神の国が私たちのところにもやってくるようにと祈るのです。
問い:どうすれば、そのようなことが起こるのでしょうか。
答え:天の父なる神様は私たちに聖霊を送って下さいますので、私たちは神の恵みによって神の聖なる御言葉を信じることができます。そして私たちは、現在のこの世においても、さらに永遠の命においても、神の御心に従った生活を送ることができるのです。
三番目の願い
- みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
〔あなたの意志が天国で成就するように、地上においても成就しますように。〕
問い:これはどういう意味ですか。
答え:もちろん、神の正しく恵み深い御心は、私たちが祈らなくても成就します。しかし、私たちはこの願いを通して、神様の御心が私たちにおいても成就するようにと祈るのです。
問い:どのようにしてそれが起こりますか。
答え:神様が、神の国を到来させまいとするすべての悪しき意志、すべての悪しき助言を打ち砕き、阻止するときです。それらの悪しきものとは、悪魔や、この世、それに私たちの肉の欲からでた意志です。また神の御心が私たちの上に成就するのは、神様が信仰と神の御言葉によって私たちを強め、人生の終わりに至るまで私たちを信仰深く生かしてくださるときです。これこそ、正しく、恵みにあふれた神様の御心なのです。
四番目の願い
- われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日もあたえたまえ。
〔私たちに毎日の糧を今日も与えてください。〕
問い:これはどういう意味ですか
答え:もちろん、私たちが祈らなくても、神様は、悪い人間たちに対しても日々の糧をお与えになります。けれども、この願いを通して、日々の糧を神様が与えてくださることを意識し、感謝をもって日々の糧を受け取れるようにと私たちは祈るのです。
問い:「日用の糧」とはどういう意味ですか。
答え:私たちのからだを養い必要を満たしてくれるすべてのもののことです。例えば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、金銭、所有物、献身的な配偶者、献身的な子供たち、献身的な雇い人、献身的で信仰深い施政者、よい政府、よい天気、平和、健康、学問、名誉、よい友人、信仰深い隣人、そしてこれに類する他の全てのもののことです。
五番目の願い
- われらに罪をおかすものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。
〔私たちに対して罪をおかした人を私たちはゆるしますから、 あなたも私たちの罪をゆるしてくださいますように。〕
問い:これはどういう意味ですか。
答え:私たちはこの願いを通して天にいらっしゃる私たちの父なる神様が私たちの罪に目を留めたりなさらず、また私たちが罪深いからとか私たちが祈り求めるものにふさわしくないからということを理由にして、私たちの願いを退けたりしないようにと祈るのです。しかし神様は私たちに、そのすべてのものを恵みによって与えたいと思っています。毎日何度も私たちは罪を犯し、刑罰を受けるのが当然の身でありながら、神様はそうしてくださるのです。だから、私たちも当然のこととして、私たちに罪をおかす人々に心から喜んで良いことをしたいと願うのです。
六番目の願い
- われらを試みにあわせず
〔私たちを誘惑にあわせないでください。〕
問い:これはどういう意味ですか。
答え:もちろん、神様は誰も誘惑したりはしません。でも、私たちはこの願いを通して、神様が私たちを守り、救ってくださるようにと祈るのです。そして、悪魔・この世・私たちの肉の欲が、私たちを欺いたり、異教や異端・絶望・他の恐ろしい不品行・悪徳へ誘い込んだりすることのないように。また、たとえそれらが私たちを攻撃してきても、私たちはそれらに打ち勝ち、最後には勝利するようにと祈るのです。
七番目の願い
- 悪より救い出だしたまえ。
〔邪悪なものから、私たちを自由にしてください。〕
問い:これはどういう意味ですか
答え:全体の結びとして、私たちはこの願いを通して、天にいらっしゃる私たちの父なる神様が、私たちの肉体・魂・財産・名誉を脅かす全ての悪しきものから私たちを守ってくださるようにと祈ります。そして、ついに最後の時がやってきたとき、祝福のうちに死を迎えることを神様がおゆるしになり、 主の恵みのうちに、涙の谷から神様のみもとへ連れて行ってくださるようにと、私たちは祈るのです。
アーメン。
- アーメン。
問い:これはどういう意味ですか。
答え:天にいらっしゃる父なる神様が、この祈りを受け入れてくださり、聞き入れてくださるのを、私は確信しています。また、このように祈りなさいと私たちにお命じになったのは神様ご自身であり、神様が私たちの祈りにこたえると約束しておられることを、私は確信しています。アーメン。アーメン。これは「そうです、そうです。このようになります」という意味です。
第四部:洗礼について
父親が家族に洗礼を簡潔に示すには
- 問い:洗礼とは何ですか。
答え:洗礼は単なる水ではありません。神の命令に含まれ、神の御言葉と結びついている水なのです。
- 問い:それはどのような御言葉ですか。
答え:私たちの主キリストがマタイによる福音書の最終章で語られた「世界中に行き、すべての異邦の国々に教え、父、子、聖霊の御名によって洗礼を行いなさい」という御言葉です。
- 問い:洗礼によって何が与えられるのですか。洗礼にどんなよいことがあるのでしょうか。
答え:洗礼によって罪が赦され、死と悪魔からあがない出され、信じるものすべてに永遠の救いが与えられます。それは神の御言葉と約束が宣言している通りです。
- 問い:その神の御言葉と約束とは何ですか。
答え:私たちの主キリストがマルコによる福音書の最終章で語られた「信じて、洗礼を受ける者は誰でも救われます。しかし、信じないものは誰でものろわれます」という言葉です。
- 問い:どうしてそのようなすばらしいことが水にできるのですか。
答え:もちろん、水にはそのようなことを行う力はありません。水とともにあり、水のうちに働く神の御言葉がそのようなことをなすのです。 なぜなら、神の御言葉がなければ、水はただの水にすぎず、洗礼ではないからです。しかし神の御言葉があるとき、水は洗礼となり、恵みに満ちた命の水、聖霊による新生の洗いとなるのです。それは、聖パウロがテトスへの手紙3章で次のように述べている通りです。「神が私たちの上に救い主イエスキリストを通して豊かに注いで下さった、聖霊による新生と更新の洗いを通して、私たちは同じ恵みによって義とされ、永遠の命という希望によって相続人となったのです。これは信じることができる言葉です」
- 問い:水による洗礼にはどんな意味があるのですか。
答え:私たちの内なる古いアダムは、日々の悲しみと悔い改めによって、すべての罪と邪な欲望とともに溺れ死に、そして、その反対に、新しい人間が日々生まれ、死から再び復活する、という意味があります。その新しい人間は神の御前で、正しく聖い者として永遠に生きるのです。
- 問い:どこにそれが書いてありますか。
答え:聖パウロがローマ人への手紙6章で次のように言っています。「私たちは洗礼を通してキリストといっしょに死へと葬られました。ですからキリストが父の栄光によって死から復活したのと同じように、私たちも新しい命のうちに歩むのです」
第五部:罪の告白について
教育を受けていない人に罪の告白を教えるには
- 問い:懺悔とは何ですか。
答え:懺悔は二つの部分からなっています。一つ目は、自分の罪を認めることです。二つ目は、神ご自身から受け取るように、懺悔師(confessor)から滅罪(absolution)すなわち罪の赦しを受け取ることです。自分の罪が天の神様によって赦されたということを、疑わずに堅く信じて受け取るのです。
〔訳注:滅罪とは罪が完全に赦されたことの祝福を指す(『信仰要義』p.58)〕
- 問い:どのような罪を懺悔しなければならないのでしょうか。
答え:神様に話すときは、たとえ自分が知らない罪であっても、私たちはすべての罪を、負っていることを認めなくてはなりません。それはちょうど「私たちの父」に対してするのと同じです。でも、懺悔師(confessor)に対して話すときは、私たちが知っている罪、心に覚え、感じている罪だけを告白するのです。
- 問い:それはどのような罪ですか。
答え:ここで、十戒に照らして自分の生活の中での立場を考えてみましょう。あなたは父ですか。母ですか。息子ですか。娘ですか。夫ですか。妻ですか。召使ですか。あなたは不従順、不信仰、不熱心だったりしませんか。言葉や行動で人を傷つけたことはありませんか。盗んだり、義務を怠ったり、物事をほったらかしにしたり、誰かを傷つけたりしたことはありませんか。
〔訳注:『信仰要義』ではこの後に懺悔の方法が書かれていますが、Project Wittenburgのテキストでは書かれていません。〕
第六部:聖餐式について
父親が家族に聖餐式を簡潔に示すには
- 問い:聖餐式とは何ですか。
答え:聖餐式は、私たちの主、イエスキリストのまことの体と血潮であり、パンとぶどう酒によって私たちクリスチャンが食べそして飲むようにとキリストご自身によって制定されたものです。
- 問い:どこにそのことが書いてありますか。
答え:聖なる使徒マタイ、マルコ、ルカ、そして聖パウロが書いています。
「私たちの主イエスキリストは、売られていく夜、パンを取り、感謝をささげてから裂いて弟子たちに渡してこう言いました。「これを取りなさい。これを食べなさい。これは私のからだであり、あなたたちのために与えられるものです。私を忘れないように取って食べなさい」同じようにして食後の杯も取り、感謝をささげてから弟子たちに渡してこう言いました。「みんな、この杯を取って飲みなさい。この杯は私の血による新しい契約〔新約〕です。あなたたちの罪を赦すために流されるものです。これを飲むたびに、私を忘れないようにこれを行いなさい」
- 問い:食べたり飲んだりすることがどんなよいことをなすのでしょう。
答え:「あなたたちのために与えられる」および「あなたたちの罪を赦すために流される」という言葉が示しています。すなわち聖餐式のこれらの言葉を通して、罪の赦し、命と救いが私たちに与えられます。なぜならば罪が赦されるところでは、命と救いも同じようにあるからです。
- 問い:どうして物理的な食べたり飲んだりすることがそんなにすばらしいことをなすのでしょうか。
答え:もちろん食べたり飲んだりすることがそのようなことをなすわけではありません。ここに書かれている「あなたたちのために与えられる」および「あなたたちの罪を赦すために流される」という言葉が、それらのよいことをなすのです。これらの言葉は、物理的な食べたり飲んだりすることとともに聖餐式の重要な部分を占めているのです。これらの言葉を信じる人は、ここで述べている通りのもの、ここに記されている通りのものを得るのです。すなわち、罪の赦しを得るのです。
- 問い:それでは誰がこのような聖餐にあずかることができるのでしょうか。
答え:もちろん、断食やそのほかの物理的な準備というのは、体にとってすばらしい訓練となるでしょう。しかし、「あなたたちのために与えられる」および「あなたたちの罪を赦すために流される」という言葉を信じる人なら誰でも、聖餐にあずかる十分な資格があり、準備ができているのです。しかしながら、これらの言葉を疑ったり信じなかったりする人は聖餐にあずかる資格がないのであり、準備ができていないのです。なぜなら「あなたたちのために」という言葉は、完全に信ずる心を求めるからです。
朝と夕べの祈り
父親が家族に朝と夕べの祈りを教えるには
朝の祈り
朝、起きたらすぐに、聖なる十字架のしるしによって自分自身を祝福し、次のように言いましょう。
父、子、聖霊なる神様の御心がなされますように。アーメン。
それから、ひざまづいても立ったままでもよいですから、使徒信条を述べ、主の祈りを祈りなさい。次の小さな祈りを祈ってもよいでしょう。
天にいらっしゃる、わたしのお父様。あなたの愛する御子(みこ)イエス・キリストを通して、感謝します。昨晩も、あらゆる悪いものや危ないことから私を守ってくださり、ありがとうございます。今日一日もまた、あらゆる悪と罪からわたしをお救いください。そして、私の行動や生活があなたを喜ばせるようにと祈ります。私自身を、すなわち私の体と、私の心と、私の持っているものすべてを、あなたの御手(みて)におゆだねいたします。悪しき敵が私に力を振るうことがないように、聖なる天使を私のところにおつかわし下さい。アーメン。
その後で、喜びをもって仕事をはじめたり、十戒やあなた自身の考えから示された歌を歌ったりしてもよいでしょう。
夕べの祈り
夜、寝床に入るとき、十字架のしるしによって自分自身を祝福し、次のように言いましょう。
父、子、聖霊なる神様の御心がなされますように。アーメン。
それから、ひざまづいても立ったままでも、使徒信条を述べ、主の祈りを祈りなさい。次の小さな祈りを祈ってもよいでしょう。
天にいらっしゃる、わたしのお父様。あなたの愛する御子(みこ)イエス・キリストを通して、感謝します。あなたの恵みによって私を守ってくださり、ありがとうございます。今日私がおかした罪と悪をどうかおゆるし下さい。今晩も、神様のお恵みによって私をお守りください。私自身を、すなわち私の体と、私の心と、私の持っているものすべてを、あなたの御手(みて)におゆだねいたします。悪しき敵が私に力を振るうことがないように、聖なる天使を私のところにおつかわし下さい。アーメン。
その後すぐに、喜びながら眠りましょう。
食事の祈り
父親が食事の恵みと感謝の祈りを教えるには
子ども達と使用人たちは食卓に集まって慎みつつ両手を組み、次のように言いましょう。
主よ、いまあなたに目を向けます。あなたは皆に食べ物をちょうどよい時に与えてくださいます。あなたは惜しみなく与えてくださる御手を開き、すべての生きるものの飢えを、望むもので満たしてくださいます。
原注:「望むもの」というのは、すべての生き物がたくさん食べて、幸福で、喜びにあふれるようなものを意味します。なぜなら、思い悩みや強欲はそのような望みを妨害するからです。
その後で、主の祈りと次のお祈りを祈りましょう。
主なる神様。天のお父様。私たちを祝福し、これらの賜物を祝福してください。これらは、あなたの惜しみなく与えてくださる御手からいただいたものです。私たちの主、イエスさまを通して祈ります。アーメン。
〔訳注:『信仰要義』ではこの後に「食後の祈り」および「家庭訓」が書かれていますが、Project Wittenburgのテキストでは書かれていません。〕
訳者あとがき
マルチン・ルターの小信仰問答書について
『マルチン・ルターの小信仰問答書』(1529年)は、宗教改革を行なったマルチン・ルターがキリスト教の教義のエッセンスを問答形式でまとめたものです。学者や教育程度の高い人に向けたものではなく、一般の民衆、特にあまり教育を受けていない人向けに書かれています。
宗教改革後、ルターは各地の教会を巡視しました。しかし、多くの人がキリスト教の教義を知らずにおり、また牧師にも指導力が不足していることを見て、ルターは大きなショックを受けました。そこでルターはまず牧師向けに『ドイツ・カテキズム』(後に『大信仰問答書』)という大きな信仰書を著し、そしてその後、一般の信徒向けに短くまとめた信仰書を編纂しました。それがここで紹介している『マルチン・ルターの小信仰問答書』です。
『マルチン・ルターの小信仰問答書』は、キリスト教における十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼、罪の告白、聖餐式などの意味を問答形式で簡潔・平明にまとめており、キリスト教の全体像をとらえるためのよきテキストになっています。
マルチン・ルター(1483-1546)は、ドイツの宗教改革者で、1517年、免罪符販売を行なっていた当時の教会に対して、95カ条にのぼる抗議文を公開しました。 その中でルターは、人は免罪符によってではなく神を信ずる信仰によってのみ救われることを主張します。これをきっかけとして宗教改革がはじまりました。
この翻訳について
この『マルチン・ルターの小信仰問答書』は、Project Wittenburgの、Luther's Little Instruction Book(The Small Catechism of Martin Luther),translated by Robert E. Smith,May 22, 1994,(Version 1.1 -- December 22, 1994),-if htmlPW# 001-003-002Ea-if latexPW\# 001-003-002Eaの全訳です。
訳注は〔訳注: 〕で示しました。
聖書の言葉は英文を翻訳しました。
主の祈りの文章は、多くのプロテスタントの教会で唱えられているものを記述したものです。ルターの文章との呼応を補うために〔 〕の形で訳文を示しました。
使徒信条の文章は、多くのプロテスタントの教会で唱えられているものを記述したものです。
訳者はプロテスタントの一信徒に過ぎません。誤訳などの指摘を歓迎します。
参考文献
- 『信仰要義』マルチン・ルター著、石原 謙訳、岩波書店(岩波文庫)
修正履歴
- 1999年11月6日、「主の祈りについて」のみを公開しました。
- 1999年12月10日、「マルチン・ルターの小信仰問答書」全体を公開しました。
- 2000年4月25日、「マルチン・ルターの小信仰問答書」全体をパブリックドメインに置きました。
- 2000年5月9日、「マルチン・ルターの小信仰問答書について」を加筆しました。
This work is dedicated to thePublic Domain.
本翻訳はパブリックドメインに置かれている。